名古屋城天守閣 特別陳列「武器武具大百科」

開催期間:2014年1月18日(土)〜3月9日(日)

特別陳列「武器武具大百科」

日本の武器、武具は、古くから独自の形式のものがつくられ、発達してきました。戦国時代に量、種類とも豊富になり、質的にも飛躍的に向上しました。その後、徳川政権下の長い平和、鎖国の時代をへて、幕末期まで伝統的な形式のものがつくられ、使われてきました。名古屋城では従来から、武器、武具を積極的に収集してきました。この展示では、その中から代表的なものを紹介し、日本の武器、武具がいかに多くのバリエーションを持っていたのかを振り返ります。それぞれがどのような機能を持ち、どのような場面で最も効果的に使われたのか。どのような工夫が凝らされてつくられたのか。さらに機能面だけでなく、さまざまな装飾、デザインもお楽しみください。

詳しくは下記の解説と関連映像(解説下)をご覧ください


太刀と刀

銘備州長船康光

銘備州長船康光

室町時代前半までの合戦では、馬上から太刀を振り下ろす、弓を射る という戦い方が主流とされていました。馬上で使うための刀が太刀です。 やがて合戦は、徒歩による集団戦へ変化していきました。戦国時代以後、 太刀はほとんど使われなくなり、代わって打刀(通常の刀)に脇指(短い刀) を、2本1組にして腰に差すスタイルが定着しました。
合戦時には遠距離の敵には火縄銃と弓矢が、接近戦では槍が主要な武器として用いられました。刀を使うのは、敵味方入り乱れての混戦、あるいは屋内での戦闘時でした。
一方で、刀は刀身が長く、美しく輝くという、他の武器にはみられない特徴がありました。自身の強さ、優位性を表現するため、さまざまな形式の刀が生み出されました。その美しさは、現代を生きる人々にも高く評価されて います。

槍と薙刀(なぎなた)

槍 銘平安城住石堂助利 江戸時代前期

槍 銘平安城住石堂助利

戦国時代には、集団による大規模な組織戦が中心となり、槍は主力の武器でした。敵を突き刺すというイメージが強くありますが、遠心力を生かして上から叩く、足を払って倒すなど、多彩な攻撃パターンがありました。弓、乗馬などと比べると訓練が簡単で、兵の個人の技量に左右されにくい。量産もしやすく、短期間でそれなりのレベルの戦闘集団をつくることができるという利点がありました。
薙刀は平安時代に誕生し、刀を持つ相手より遠くから攻撃できるものとして、いったんは主力武器となりました。武蔵坊弁慶が薙刀を振り回して、多くの人から刀を奪ったエピソードは有名です。しかし槍が広まると、主役の座を奪われてしまいました。その後は、城を警備する女性や、寺を守る僧侶が使うようになりました。

甲冑(かっちゅう)と兜(かぶと)

勝色白糸威胴丸具足 天正4年(1576)作

勝色白糸威胴丸具足 天正4年(1576)作

甲冑は弓、槍、刀などの攻撃から身体を守るための装具の総称です。胴体に付けるものが 鎧(よろい)、頭にかぶるものを兜、身につけるものが一式揃っているものを具足(ぐそく)といいます。
戦国時代には、火縄銃が登場したため、甲冑の防御力も強化されました。できるだけ隙間なく全身を防御しつつ、動きやすく、着脱しやすい工夫も施されました。
また、戦場において目立ち、のちの手柄のとり合いを有利に運ぶため、兜に派手な飾りが付けられるようになりました。奇抜なデザインの「変わり兜」があらわれたのも、戦国時代以降です。

陣羽織と陣笠

黒漆塗日の丸紋端反形陣笠 江戸時代

黒漆塗日の丸紋端反形陣笠 江戸時代

陣羽織はもともと、鎧(よろい)の上に着る防寒具、雨具であった。戦国時代になると自分の個性、ファツション性などを重視し、派手なものがつくられるようになりました。自身の甲冑(かっちゅう)と合わせて、格好良さ、裕福さ、センスの良さをあらわすアイテムとなりました。
陣笠はもともと、足軽が兜(かぶと)の代わりに使った、頭部用の防具です。家紋や合印(敵味方を識別するマーク)が付けられたものが多く見られます。江戸時代に入り、実戦の機会がなくなると、陣笠は日除け用の帽子としての機能が重視され、木製の軽量なものがつくられました。幕末期には、多くの武士が馬に乗るとき、簡易な鎧と陣羽織、陣笠を着用しました。

馬具

梨子地獅子牡丹蒔絵鞍 天文7年(1538)

梨子地獅子牡丹蒔絵鞍 天文7年(1538)

馬具とは、人が馬に乗るとき、馬を効率よく利用するために装着する道具です。古墳時代の遺跡からも出土しています。かなり古い時代から、中国や朝鮮から伝来した馬具が使われていました。
馬と弓を扱う技術は、武士にとって最も重要な能力とされてきました。平安時代以後、騎馬を用いた戦闘法が確立していくと、馬具もそれに合わせて機能性が重視され、洗練されたデザインの、日本独自のものがつくられていきました。
戦国時代には、徒歩による集団戦が中心になりましたが、司令を出す立場の者は馬に乗り、高い位置から周囲を見下ろしました。また、形勢が悪く退却する場合には、総大将を死なせないため、真っ先に馬に乗せ、戦場から離脱させました。

弓矢

矢尻(雁股) 江戸時代

矢尻(雁股) 江戸時代

古来、弓と馬を扱う技術は、武士にとって最も必要とされる能力とされました。戦国時代の初期までは、弓は槍と並ぶ主力兵器でした。矢の有効射程距離は50メートル程度とされ、火縄銃が登場するまでは、最も遠くの敵を攻撃できる武器でした。
弓を正確に射るためには、相当な訓練が必要でした。しかし、遠くの敵に対して連射ができ、命中精度が高いという利点がありました。火縄銃の出現によって、弓矢は一気に時代遅れになったわけではありません。その利点を生かした役割が与えられ、使われ続けました。

火縄銃

火縄銃 天保8年(1837) 芝辻藤左衛門清永作

火縄銃 天保8年(1837) 芝辻藤左衛門清永作

天文12年(1543)、1隻の中国船が種子島(現・鹿児島県)に漂着し、この船に乗っていたポルトガル人が火縄銃を所持していました。これが日本への鉄砲伝来とされています(異説あり)。数年後には、国内で火縄銃が製造されるようになり、またたく間に全国に広まっていきました。火様式の輸入銃に代わるまで生産、使用され続けました。
火縄銃の有効射程距離は100~200メートル程度とされています。弓矢よりも遠くの敵を攻撃できる、扱いが簡単で、短い訓練で撃てるようになるという強みもありました。しかし連射ができない、命中精度が低い、雨で火縄が濡れると撃てないという欠点もありました。

火縄銃の発射方法と小道具

弾丸 江戸時代後期

弾丸 江戸時代後期

火縄銃から弾丸を発射するには、まず銃口から火薬、続いて弾丸を込めます。この時、銃口の下に差してある細い棒、カルカ(朔杖)を使って奥まで押し込みます。火皿に少量の火薬(口薬)をのせます。火皿には小さな穴が開いていて、先ほど火薬と弾丸を込めた銃身内までつながっています。安全のため、火皿は火蓋(ひぶた)と呼ばれる部品で閉じておきます。
火縄にはあらかじめ着火しておきます。狙いを定め、撃つ寸前に火蓋を開けます。引き金を引くとバネの力で、火縄が掛けられた火縄挟みが倒れ、火皿の口薬に着火します。その炎が火皿の小穴を通り、銃身内の火薬に届いて、爆発します。その勢いで弾丸が銃口から飛び出します。この動作のために、いろいろな小道具が必要となりました。

合戦時の補助武具

銀覆輪黒漆塗蒔絵軍配 江戸時代

銀覆輪黒漆塗蒔絵軍配 江戸時代

戦国時代に入ると、兵士が大量に動員され、集団戦、持てる武器に応じて役割を分担する 組織戦(鉄砲隊、弓隊など)が中心になっていきました。そのため命令の伝達、敵味方を区別するためなど、さまざまな目的を持った、補助的な道具が使用されました。
たとえば、目の前の軍勢が敵か味方かを識別するには、鎧の背に差した旗指物を見るのが、 一番早い手段でした。また、法螺貝(ほらがい)、陣太鼓など、違った音を出す何種類かの鳴り物が戦場に持ち込まれました。それらを使い分けることで、今出されている命令が「進め」なのか、「退け」なのかを、大勢の兵士に同時に知らせようとしました。
一騎打ちから組織戦へ。この大きな変化が、武器武具にさまざまなバリエーションを生み出させたのです。

掲載映像の紹介

2014年1月18日~3月8日に、2階企画展示室で開催中の特別陳列「武器武具大百科」の会場で 名古屋城総合事務所小西学芸員の解説映像。

①名古屋城の武具武器大百科(4min20sec)

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