名古屋城下 本町通と碁盤割

本町通と碁盤割

現在の二之丸にあった那古野城跡

名古屋城下建設にあたり、防衛のため徳川家康は西、東、南に寺町を建設しました。当時寺院は武器庫としての役割も担っていました。さらにその内側に武士の住む 区域を設け、武家に監視されるように名古屋城の南側に町人の住む地域をつくりました。
堀川から東に現在の久屋大通まで、厳密には、御園通から久屋通の11本の道、南北は片端通から広小路9本の道で仕切られた区画を碁盤割と呼びました。
そのほぼ中心を、南北に本町通が貫通しています。江戸時代には、名古屋城に近い地域にいとう呉服店などの豪商の店舗や、役所などがおかれ、また昭和時代の初期までは碁盤割内の本町通沿いに店を構えることが商人のステータスになっていました。
碁盤割の南端にあたる広小路は、築城当初は堀切筋と呼ばれた3間(約5.5m)ほどの道でしたが、万治の大火(1660年)で城下の半分が類焼したこともあり3倍に拡張され広小路と呼ばれるようになりました。現在の名古屋の中心部は、家康の都市計画により 形づけられました。

-詳しくは,下記資料、掲載映像をご覧ください-

①東照宮祭山車曳き行列(2min33sec)

碁盤割案内

いとう呉服店

地階

慶長16年(1611)、織田信長の家臣伊藤源左衛門祐道が名古屋の本町で呉服小間物商を始めました。その後、万治2年(1659)祐道の遺児・祐基が茶屋町に呉服小間物問屋を開業。「現金売り正札付き掛け値なし」の商法は庶民の支持を受けました。明和5年(1768)上野の松坂屋を買収、いとう松坂屋と改めます。

桜天満宮

地階

織田信秀(織田信長の父)が京都の北野天満宮に参詣したとき、夢枕に現れた菅原道真のお告げに従い創建したといわれ、神木に桜の大樹が多かったので桜天満宮と呼ばれました。現在、敷地は縮小されたが桜通の南側に面して鎮座しています。

本町四丁目大丸屋前

地階

本町通は、名古屋城と熱田を結ぶ基幹道路として名古屋城築城とともに誕生しました。碁盤割と呼ばれる城下を碁盤の目のように区画された中心を南北にはしり、本町通四丁目を南に下ると碁盤割の南端広小路に交差します。名古屋城下でもっとも賑やかな地域でした。大丸の店の前では毎年二月二十五日桜天満宮祭礼前後の三日間に植木市が開かれました。

伝馬会所

地階

美濃路はここで西に折れ本町通と分岐します。本陣や脇本陣はありませんが、伝馬町本町交差点の南東角に公用人馬の取次所である伝馬会所がおかれました。「札の辻」とよばれる高札場や丸栄百貨店の前身十一屋も店舗を構えていました。また現在の国道19号線に沿って中山道へぬける、下街道(善光寺街道)の起点ともなっていました。

小見山宗法店

地階

紀州和歌山の浅野幸長の家臣であった小見山家は、幸長の娘春姫が尾張藩祖徳川義直に嫁いだのをきっかけに尾張藩に随行しました。 後に、尾張藩医となった小見山宗法は、尾張藩の筆頭の薬屋として繁盛しました。

医学館薬品会

地階

浅井家は尾張藩の侍医を勤めるかたわら、医学館という医学塾をつくり医師の試験も行っていました。 毎年六月十日に万国の物産や動物を公開し、多くの見物人が集まったといわれています。

広小路本町、夏の夕のにぎわい

地階

徳川家康は名古屋城下建設時、名古屋城の南の区域を碁盤の目のように区画し「碁盤割」と呼ばれました。広小路ができる前は堀切筋と呼ばれ道幅三間(3.64m)の狭い道でした。万治3年(1660)万治の大火と呼ばれる大火事が発生し城下町の大半を焼き尽くし、それを契機に久屋町から長者町までの区間が4倍以上拡幅され広小路が建設されました。以後、現在にいたるまで名古屋を代表する道として使われいます。夏の夜は涼を求めて多くの人が芝居、物まね、居合抜きの芸を夜が更けるまで楽しみました。

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